卒業生と鹿島東小学校へ-『忘れない歌~夕張市にかつてあった小学校の校歌』 活動日誌

9月17日(月)

北海道の本日は晴天。先日夕張川ダム総合管理事務所にて河川敷への立ち入り許可を頂き鹿島地区へ鹿島東小学校卒業生の方とその旦那様、清水沢プロジェクトの佐藤真奈美さんと行って参りました。

鹿島北栄町から入り、鹿島東小学校の跡地手前まで行きました。
鹿島東小学校があった水没していたのでその場所まで行くことは不可能でしたが、鹿島地区で幼少期を過ごした彼女とこの場所に立てたことは何よりも代え難いことでした。
彼女の記憶を通して語られる物語が今はそこにない風景を蘇らせてくれました。
そして本来は水没している旧道や現地に残る歴史の破片はそこに確かにあった時間を提示してくれたように思います。
ここで撮影した映像と後日撮影するインタビュー映像を合わせて一つの映像を制作します。

写真に見える水没している部分に鹿島東小学校がありました。

〈鹿島地区について〉
1929年の三菱鉱業による大夕張炭鉱開発により建築された街区で、この地区が大夕張と言われているのはその所以である。
開発当初は三菱炭鉱鉱業大夕張鉄道線以外の公共交通機関はなかった。1962年に清水沢地区からの道路が開通した。1966年に夕張市南部(南大夕張)地区に三菱大夕張炭鉱の開発が始まり、1970年には同炭鉱の出炭が開始しされたことに伴い鹿島地区から南部地区に住民が移り始める。1973年の大夕張炭鉱閉山により鹿島地区全体の過疎化が急速に進む。1974年には11000人ほどいた住民は1974年には4000人ほどに現象。1998年いんは夕張シューパロダム建設に伴い全住民約350人が移転、全域が無人地区となった。2014年には夕張シューパロダムの湛水が始まったことにより、かつて街があった部分が水没。

〈夕張市立鹿島東小学校について〉
1950年8月 千年町に校舎の建築を着工
1951年6月24日 開校。通学区域を千年町、常盤町、明石町、第2農場、鹿島開拓とし、児童数609名を鹿島小学校より移籍、12学級編成とした
1952年3月 校歌・校章・校旗が制定
1958年4月 児童数は27学級、1338名で最高児童数を記録
1974年4月 三菱大夕張炭鉱の閉山により児童が急激 児童数は6学級、110名
1978年3月 鹿島小学校に吸収統合のため閉校

協力 清水沢プロジェクト
助成 公益財団法人朝日新聞文化財団

(文章・写真 菊池史子)

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